映画批評.映画評論
「グラン・トリノ」(2008)クリント・イーストウッド~羞恥心とB級映画について 2009.5.30
カットつなぎだけでさっさかさっさか進んでゆくこの「グラン・トリノ」は、呆れ果てるほど単純かつ大胆な経験値によって撮られている。
オーバーラップは以下の五箇所しか入らない。
①タオが労働しているシーン
②倒れたイーストウッドの俯瞰からパトカーへつながれる時
③事件現場でタオの勲章へとキャメラが寄ったあと
④ポーチの犬から教会へとつながれる時
⑤遺言を聞いているタオの顔からラストの車のシーンへつながれる時、
音楽も主題歌のメロディが六箇所入るだけである
①オープニング
②イーストウッドがグラン・トリノを洗車している時
③雨の中、タオが労働している時
④病院から帰って来たイーストウッドが息子へ電話をかけている時
⑤倒れたイーストウッドの俯瞰が入るとき
⑥遺言を聞いているタオが映し出された時。
それ以外は呆れるほど単純なカットつなぎによってどんどん進んでゆくのである。隣室から差し込まれてくるランプシェードの灯りにうっすらと照らされたイーストウッドの右頬を涙が伝う画面であるとか、それまでの24時間以上省略されたとしか思われないシーンなど、突出している画面も確かに存在する。工具を買うシーンは外からキャメラが中へ入ったまま続いてゆく30前後の凝った長回しであり、その他にも、不良を殴ったあとの雨中、車で帰って来て家の中に入るまでのシーン、銃撃された隣家に走って向うシーンなど高度なトラッキングを併用したワンショットで撮られていて、決して透明な画面の連なりだけで撮られているわけでもない。だがそれ以外は極めて透明な画面が連ねられ、照明にしても、病院の女医の顔に当てられる光を始め、間違っても素晴らしいなどということは憚られるものであって、いったいどうしてこの映画がこれほどのエモーションを醸し出すのか良く判らない。
こうしてわけの分からない映画に接したとき、私としては、映画の骨を取り出したり、見たことや聞いたことを羅列してみたりしながら、無力さの中で何かを炙り出せたらという、いつものパターンで進んでゆくしかない。
■映画の骨を取り出す
80に手の届く男がいる。白人の彼は、黄色人種やヒスパニックなどの移民の暮らす一角で一人老後を営んでいる。映画は、風が街路樹を大きく揺らす教会前のロングショットから開始され、彼の妻の葬儀と通夜のシークエンスへと続いてゆく。頑固者で、息子や孫たちにまったく理解されず孤立する彼の友達は、グラン・トリノという一台の車と、一匹の耳の不自由な白い老犬と、酒場の馴染みの客と、床屋と、工事現場で働く労働者である。彼は或る戦争で10人以上の敵兵を殺した兵士であり、彼の地下室の道具箱の蓋の裏側には「英雄」という趣旨の文字が書かれ、その中には勲章や武勲の写真の数々が収められている。戦争での殺人への罪の意識を密かに抱える彼は、あるトラブルで行きがかり上助けた隣家のモン族の娘、アーニー・ハーに「私のヒーロー」と呼ばれることになる。
戦後50年間フォードの組立工として働いてきた彼は、今は引退し、時に個人としての修理工を営んでいる。彼は隣家の乾燥機や扇風機を修理し、車泥棒の少年には、向かいの家の雨どいを修理させたりしている。彼は、少年が密かに思いを寄せる娘との会話においても、私は修理屋であり、女房の友達の家の流しを修理したり、風邪をひいた老婆を病院まで車で送って修理したり、壊れてもいないドアを修理したこともある、とジョークを飛ばしている。
彼は「ヒーロー」であり、「修理をする人」であるらしい。
■ハリウッド的ヒーロー
「グラン・トリノ」のヒーローは、ハリウッド映画という範疇に従った映画的なヒーローである。
隣家のモン族の住人たちをギャングから助けたあと、同じモン族のコミュニティの隣人達が花や料理を持ってきてイーストウッドの家のポーチの階段に置く。それを「ノォー、、ノォーモア」などと、さも困った顔をして断ったりするこの感じを、我々はハリウッド映画で何度も見ているはずである。
ハリウッドの男たちがひたすら「非文明圏」の民族たちにかしずかれて困ったフリをするというこの記憶は、まるで「ドノバン珊瑚礁」なり「サヨナラ」なり「黒船」なりといったハリウッド往年の映画の主人公達の振る舞いそのままなのだ。こうした、いかにも、さも、というハリウッド的でステレオタイプのヒーローをイーストウッドはこの「グラン・トリノ」で演じている。
■ヒーローと人相学
イーストウッド扮するウォルト・コワルスキーは、映画の中でハリウッド的なヒーローを演じている。だが一口にヒーローといっても色々、そこでまずは人相学の観点から、ウォルト・コワルスキーのヒーロー性を見ていきたい。
「グラン・トリノ」は、人物の人相においてもまた、極めてハリウッド的な人相学に従っている。モン族のギャングたちの顔は「われわれは不良です」という顔をしており、ウォルト・コワルスキーの二人の息子たちは、まったくもって印象の薄いステレオタイプの人相が選ばれている。イーストウッドを精神的に補助しようとする神父のクリストファー・カーリーの人相はベビーフェイス以外の何物でもなく、モン族の家族についてもまた、まずもって姉弟の母親は「私がこの良い子たちの賢明な母です」という顔をしており、娘のアニー・ハーにしても、少年のビー・バンにしても、私どもは決して悪いことは致しません、という人相をしている。この純粋無垢さの人相学の記憶において、「彼奴(きやつ)は顔役だ!」(1939)のプリシラ・レインについて考察してみたい。
●「彼奴(きやつ)は顔役だ!」(1939)
ラオール・ウォルシュの「彼奴は顔役だ!」はこういう映画である。
第一次大戦下、戦地で若い娘からのファンレターをもらった戦士は戦争が終わると娘に会いに行くが、娘がまだ子供なのに驚き身を引く。禁酒法時代にギャングとなってぼろ儲けをした戦士は、酒場の古い女と良い仲になる。月日が経ち、成長した娘を酒場の舞台で偶然見かけた戦士は娘に惹かれてゆく。しかし娘は、戦士の顧問弁護士をしているハンサムな若者を愛してしまう。禁酒法が廃止され、戦士はおちぶれてタクシーの運転手に舞い戻り、娘は弁護士の若者と結婚する。だが若者のもとへは、かつて戦士の仲間であったギャングの魔の手が迫る。娘は戦士に若者を守ってくれと頼む。戦士はかつてのギャング仲間に会いに行き、銃撃戦となり、瀕死の重傷を負いながら、街中をふらふらと走って教会の前まで辿り着き、そこへ酒場の古い女が駆けつけすがりつく、、、そして、、、
この映画もまた、最近私が何度も引用して止まないところの「古い者たち」と「新しい者たち」とが対比され、後者を守るために前者が消えてゆくという作品である。ここで「新しい者」として登場する「プリシラ・レイン」という女優の人相が、さも純粋無垢を地で行ったような顔をしているのである。対するギャグニーは言うに及ばず、酒場の中年女を演じたグラディス・ジョージにしてもまた、酸いも甘いも吸い尽くした「古い者です」という顔をしている。プリシラ・レインは、アルフレッド・ヒッチコックの「逃走迷路」のヒロインとして出ていたあの女優だが、決して上手な女優というわけでもない。明らかにプリシラ・レインは「人相学」によって起用されているのである。そうしたハリウッド的人相学=極端な人相学を、未だもってイーストウッドは涼しげな顔でもって実践し続けているのだ。それもまたポストモダンの底の抜けたこの時期にである。
モン族の娘を演じたアニー・ハーは、決して「美人」なるものではなく、顔はペシャンコでお尻はドテッとしており、イーストウッドの誕生日に、車から降りてポーチに座っているイーストウッドを見つける時の視線の演技など下手糞で見ていられない。だが間違っても「わたくし、悪いことはいたしません」という顔をしており、弟のビー・バンにしてもまったく同様な人相学によって選ばれている。こういう記憶とは、決して偶然によるものではない。
●「ラスト・シューティスト」(1976)
ジョン・ウェインの遺作であり、イーストウッドの「師匠」であるドン・シーゲルの撮ったという怪しげな作品である●「ラスト・シューティスト」(1976)においてもまた、ジョン・ウェインは最期の決闘へ向う途中の路線馬車の中で、ただひたすら人相学的に無垢であるとしか例えようのない見知らぬ少女に突然挨拶をし、「君の幸運を祈っている」と別れて決闘へと向って行っている。
こうしたことを反復してゆく歴史の中で際立っているのは、「グラン・トリノ」におけるモン族の少年少女が「若い」とか「新しい」とかいうことだけではない。「ヒーローが古い」、ということである。イーストウッドは、彼らの人相を「新しく」することで、徹底的に自己のヒーロー像を「古い者」として打ち出しているのだ。それはイーストウッドが愛したはずのラオール・ウォルシュから、師匠のドン・シーゲルへと続くハリウッド的人相学の記憶そのものでもあるだろう。
■古い者が新しい者に「流儀」を教えること
モン族の住む町にはもはや「異質な他者=隣人」を見つめて保護してくれる者など何処にもいない。彼らは「新参者」であり、若い者以外は英語をしゃべれることもできない。そんな新参者をひたすら見つめ続け、その関係を修復する人間こそ「ヒーロー」なのだ。
●「ウエスタン」(1968)
「ウエスタン」という、これまたイーストウッドの師匠であるセルジオ・レオーネが撮った怪しげな西部劇がある。
西部にも鉄道が敷かれようとしている頃、東部から一人の娼婦が、西部で開拓をしているアイルランド系の移民男と結婚するために汽車に乗ってやって来る。だがアイルランド男は家族もろとも既に殺し屋によって皆殺しにされており、娼婦はアイルランド男の意志を受け継ぎ、荒れ果てた西部の大地に駅を作ることを決心する。娼婦は鉄道会社と会社に雇われた殺し屋の妨害に遭い、殺し屋に体を奪われるが、一人のお尋ね者と、一人のハーモニカを吹くガンマンが何故か娼婦を助け、アイルランド男から娼婦へと受け継がれた「駅を作ること」という意志を影になり助けてゆく。娼婦はアイルランド男の残した木材を組み立てて、駅を作ってゆくのだが、お尋ね者と、ハーモニカのガンマンは、何故か娼婦には決して手を出さず、それどころか娼婦を助け、最後の決着を付けるためにそれぞれの使命を果たしに出かけてゆく。ハーモニカを吹く男は、娼婦を犯した「決してビジネスマンにはなれない古い男」である殺し屋と決闘し、お尋ね者もまた、鉄道会社へと乗り込んで消えて行く。
丸腰の労働者たちが娼婦の周りに集まり始め、駅の建設が軌道に乗り始めてゆく。不要となったガンマンたちは、誰にも見送られることなく、密かに消えて行く。
何か似ているのである。大胆に言うことが許されるならば「グラン・トリノ」はこの「ウエスタン」のリメイクである、と断言してしまいそうになる。
ここで非常に面白いシーンがある。ハーモニカ男がある時、娼婦のドレスの胸を引きちぎり、娼婦のドレスの長袖の肘から下を引きちぎるシーンである。一見このシーンは、ハーモニカ男が娼婦をレイプするように撮られていながら、実はそうはならない。ただひたすらハーモニカ男が娼婦のドレスの胸を引きちぎり、娼婦のドレスの長袖の肘から下を引きちぎるだけで終わるのである。映画にはこの行為に対する言語的説明はどこにもない。だがこの行為こそ紛れもなく「西部の女はこうだ!」以外の何物でもないのである。ハーモニカ男は新参者である東部の女に、西部の流儀を教えている。「西部の女は胸を出し、エプロンをし、袖口を露出させ、開拓者である男たちに酒を振舞い、その際、男たちに尻を触られても決して取り乱してはならない」。この「ウエスタン」とはまさしく、新参者に流儀を教える映画なのである。
「グラン・トリノ」の頑固者が、新参者であるところの少年を床屋や建設現場へ連れてゆき、流儀を教えたのは、こうした映画史と直結している。映画史とは知識との辻褄あわせでなく、持続を惹き起こすところの記憶の集積なのだ。
■ヒーローが頑固者であること
「グラン・トリノ」のヒーローは古い男である。古い男とは、新しい時代から取り残された頑固で孤独な老人である。その頑固さの一つとして「グラン・トリノ」によって露呈し続けているものこそ「見られること」を前提とした羞恥心という、恥の意識にほかならない。
イーストウッドが最後の戦いに備えて風呂に入り、ひげを剃り、服を直して出て行ったのは、まさに「見られること」を前提とした羞恥心としての身だしなみにほかならず、それはジョン・フォードの遺作●「荒野の女たち」(1965)において、それまではスラックスとシャツ、ジャンパーとテンガロンハットを身にまとい、まるで男のような格好をし続けていた女医のアン・バンクロフトが、最期にキモノに着替えたあの身だしなみの記憶と重なるだけでなく、またもやドン・シーゲルの●「ラスト・シューティスト」(1976)において、末期がんで余命僅かなガンマンであったジョン・ウェインが、みずからの決めた最後の決闘が行われる酒場へと向う前に、床屋へ行き、風呂に入り、自慢のスーツをプレスに出したことと不思議なまでに重なりあっている。
ウォルト・コワルスキーが遺言で少年に、グラン・トリノに禁じた改造とは、見られることを前提としたみっともない改造であったことは偶然ではない。
こうしてクリント・イーストウッドのウォルト・コワルスキーは、見られることを前提とした身だしなみとしての羞恥心に身を包みながらも、同時に彼のコミュニケーションは、「てれ」としての羞恥心によってもまた支配されている。
「イタ公」の床屋との軽口にしても「アイルランド野郎」の建設監督とのやりあいにしても、「見られている者」同士の日常的な会話において露呈しているものは「てれ」であり、そこで取り交わされる関係といえば、他愛もない軽口の応酬に過ぎず、真実なるもののやり取りからは遠くはなれた、ひたすらの「関係の確認作業」といったものに過ぎない。彼らの真の関係は、映画開始以前に既に「ハワード・ホークス的に」形成されていたのであり、映画の中での彼らは、既に「真実」によって構築されていたところの関係を確認していただけに過ぎないのだ。
それではウォルト・コワルスキーに「真の関係」をもたらす現象とは何か。
■「見られている事を知らない者」を「盗み見」すること。
頑固なウォルト・コワルスキーが、どうしてモン族の家のパーティに行く気になったのだろう。ここでその前後の彼の視線を見て行きたい。
①ボーイフレンド(イーストウッドの実の息子である)と町を歩いている時、娘(スー・ロー)は三人の黒人の不良たちに絡まれる。それを十字路の離れたところに停車したトラックの中から、イーストウッドがじっと見ている。
気弱で煮え切らないボーイフレンドと異なり、娘は一人で不良たちに勇敢にも立ち向かっている。イーストウッドのトラックとの距離的、角度的な「ずれ」からみて娘はイーストウッドに「見られている事を知らない者」として演出されている。それを遠くから見つめ、かつ聞いているイーストウッドの視線の構造は「盗み見」であり、「盗み聞き」であるだろう。その構造については論文「成瀬巳喜男とは何か」で嫌というほど検討しているのでここで詳細は省く。イーストウッドがここで見たのは、ウォルト・コワルスキーに「見られていること」を知らない娘が気丈にも戦う「裸の顔」であり、「裸の声」である。それを見たイーストウッドは車をターンさせて現場へと乗りつけ、娘を助けてグラン・トリノに乗せ、その中で「君は良い娘だ」と、初めて娘を褒めている。
②イーストウッドはみずからの誕生日にポーチの椅子に座り、缶ビールを飲み老眼鏡を掛けて新聞を読んでいる。そこへふと、車から降りた向かいの白人の女性が買い物袋をぶちまけてしまうのが目に入る(主観ショット)。通りがかりの少年達が失礼な態度で女性に接していたのを苦々しく見ていたイーストウッドだが、そこへ少年、ビー・バンが現われて、落ちている果物を拾い、女性の家までもって行くのを「目撃」する。ここで「手伝いましょう」と女性の元へと歩いて向う少年の姿は、歩いてゆく少年の背中のロングショットで撮られており、距離的、角度的にみて明らかに少年はイーストウッドに「見られている事を知らない者」として撮られているばかりか、そのショットは、ポーチの椅子から老眼鏡をかけたイーストウッドの「見た目のショット」としての「盗み見」として演出されている。
イーストウッドが娘の家のパーティへ行ったのは、その直後である。頑固で古い男であるイーストウッドの行動に変化をもたらしたのは、決して面と向かっての少年達との会話による奇麗事の羅列ではない。「見られている事を知らない者」としての娘や少年の行動を「窃視」したことの結果なのである。
③こうして娘と少年を盗み見したイーストウッドは、娘の家のパーティへ招待される。映画の中で二度目の吐血をしたあと、娘に付き添われて若者たちのいる地下室へと行ったイーストウッドは(若者たちの中でイーストウッドが一人淋しく乾燥機の修理をするシーンは見ていてつらい)、ここでもまた「盗み見」をしている。イーストウッドが盗み見をしたのは、少年を盗み見している緑色のドレスの娘の視線である。イーストウッドは、緑色のドレスの娘が少年を「盗み見」していることを「盗み見」し、少年に、どうして娘をものにしないのかとお節介を焼き始める。それを始動した大きな力こそ、①と②の「盗み見」であったことは言うまでも無い。
かつて「フォードの組立工」であったウォルト・コワルスキーが修理をするのは機械だけではない。人間同士の関係を、本来あるべき関係へと修理してゆくのだ。
■「シャあ、ラぁ、あーップ!」
イーストウッドの「真実」とは、見られている事を知っている者同士による視線の投げ合いではなく、見られている事を知らない者を盗み見するという、「ずれた」視線によってこそ始動し始めている。
さらにウォルト・コワルスキーの心を動かす大きな出来事がある。
パーティのあと、スー・ローが母と共に、弟を労働に使って欲しいと頼みに来るシーンである。階段の上部に母、中段に姉が、そしてさらに下の地面に弟が意図的に配置される。そこで姉はイーストウッドに向って、「車を盗もうとしたお詫びに弟を労働に使ってください」と何度も頼み込むのだが、頑固で古い男のイーストウッドは決して首を縦に振らない。それでも姉は「受け容れてもらえないとそれは我々に対する侮辱となります」と食い下がる。そこへ下から弟が「もういいよ、帰ろう」という趣旨のことを言って割り込んでくる。この瞬間、母と姉の口から「シャラップ!」という大きな怒声が響き渡る。それは最早「黙れ!」という意味さえ超えた渾然一体のメロディーとなって持続的に響き渡り「シャア、ラぁ、あーップ!」と、この「シャア、ラぁ、あーップ!」の「あ」を一度止めた、有無を言わせぬ極めて強い調子を三度反復して弟をたしなめるこの「黙りなさい!」という「シャア、ラぁ、あーップ!」の三連発は、それを発した階段の姉と階下の弟への見下ろしの関係もさることながら、それを受け止めた少年だけでなく、間接的に聞いていたイーストウッドをも黙らせてしまう。この「シャア、ラぁ、あーップ!」こそ「伝統に口を挟むな!」にほかならない。ここで「伝統」という不可視の秩序が一気に画面に露呈するのだ。
それまでのイーストウッドとの直接的な対話からは想像もつかない激しさとして吐露された「シャア、ラぁ、あーップ!」という怒声は、イーストウッドに対して直接ではなく、姉から弟へと「間接的に」発せられている。そうであるからこそ、逆に伝統を喪失した社会で孤立するイーストウッドを、その間接性とむき出しの音声の振動として激しく強く打ちのめす。伝統の力とは、たかだか頑固者程度の性癖では対抗できない深さを秘めているのである。その深みにイーストウッドは喜んで打ちのめされる。そしてイーストウッドは少年に向ってこう言う。
「そうだ、お前は黙ってろ」、、、
生涯に一度でもこんな脚本が書けたらそれだけで脚本家は満足して死んでよろしい。「シャア、ラぁ、あーップ!」だけでこの一軒は見事に解決し、イーストウッドは少年の労働を受け容れることになるのだ。何たる見事な脚本だろう。それまではまったくラチの開かなかった者同士の会話が「シャア、ラぁ、あーップ!」という、その会話の類とは何の関係もない剥き出しの音声によって一気に解決してしまっているのである。
娘はイーストウッドに頼みごとをしている。対立するのはイーストウッドと娘であり、この運動は、イーストウッドと娘(或いは母)との対立構造によって達成なり解決されるべきものである。だが、イーストウッドの心を動かしたのは、娘のイーストウッドに対する運動ではない。娘からその弟に対して間接的に成された「ずれた」運動である。その瞬間画面を「伝統」という空気が一気に画面を包み込み、場を静めてしまうのだ。
ここでもまた、「正面切っての会話」なる甘ったるいものでは映画は何一つ動こうとはしない。それはイーストウッドと床屋の関係を見れば一目瞭然であるだろう。あれはただ信頼関係を既に構築しているもの同士の戯れに過ぎず、その前提には、羞恥心としての「ずれ」が潜んでいるのだ。
こうしてこの映画において、行動に変化が生ずる時には多くの場合、視線や会話や場所における「ずれ」が生じている。イーストウッドも成瀬巳喜男も、同じ釜のめしを食って育っているのだ。
■目撃されること
イーストウッドは最後、敢えて人目につきやすい夜の庭の中央に場所を取り、ギャング達が出てくるのを待っている。するとギャングだけでなく、中年の夫婦などの近隣住民が二階のテラスから次々と顔を出し、事件の「目撃」をし始める。だがここで目撃された事実は、「真実」ではない。
イーストウッドが撃たれたのは真実である。なおかつイーストウッドがピストルではなく、第一騎兵師団の紋章の彫られたライターを取り出したのもまた真実である。だが内面を探ってみると、ギャング達はイーストウッドが出そうとして手を差し入れた上着の中の物体は「ライター」ではなく「ピストル」であると誤信している。「行為」とは外面と内面との複合体である以上、ギャング達がイーストウッドを撃った行為は「正当防衛(誤想防衛)」となる可能性がある。その可能性をイーストウッドは、「目撃者たち」を画面の中に配置する事で「映画的に」封じたのである。敢えてイーストウッドは目撃者達の前で「ライターを出す」と大きな声で言い放ち、彼らの正当防衛の主張を映画的に封じたのだ。
事件を聞いて駆けつけた姉弟に対して、アジア系の警官がこう言って強調している「目撃者がいるらしい。長期刑は免れないだろう」。
●「リバティ・バランスを射った男」(1962)
私はここで再びジョン・フォードを語らなければならない。
「リバティ・バランスを射った男」とはこういう映画であった。
古い者と新しい者がいた。時代を切り開いてゆくためには、新しい者がヒーローになる必要があった。だが新しい者の力はまだ弱く、一人で時代を切り開いてゆくことは困難であった。ある時、新しい者がヒーローになるチャンスが訪れる。悪漢「リバティ・バランス」と新しい者との決闘において街の者たちは、新しい者を取り囲み、彼がヒーローになる瞬間を目撃した。だが真実「リバティ・バランスを射った男」は、陰から狙撃した古い男であった。古い男は新しい男がヒーローになるのを見届けて、静かに去って行く。
ここで歴史とは、目撃者たちによって作られるものであることが描かれている。ジョン・フォードはエプロンをしたジェームズ・スチュワートとリー・マーヴィンとの決闘のシーンにおいて、明らかに意図的に、多数の目撃者を画面の中に配置している。それによってヒーローはジェームズ・スチュワートであるとして語り継がれることになるだろう。だが目撃者が作り出すのは表の歴史であって裏の歴史=真実ではない。『リバティ・バランスを射った男=ヒーロー』は、ほかにいたのである。
ヒーローとは、表の歴史と裏の歴史とに「ずれ」を生じた時、どこからともなくやって来るのだ。
●「真昼の決闘」と「ずれ」の不在
ハワード・ホークスを激怒させ●「リオ・ブラボー」(1959)を作るきっかけとなったフレッド・ジンネマンの「真昼の決闘」(1952)は、まったく逆の歴史観に拠っている。
この作品では最後の決闘のあと、街の人々がぞろぞろと出て来て、彼らが決闘を目撃していたことが示されている。しかし彼らが目撃した事実は、クーパーが悪漢たちをやっつけたという「真実」にすぎない。彼らは「真実」を「真実」として語り継いでゆくことになるのである。ここには歴史と「真実」のあいだに「ずれ」が生じていない。それ以前のクーパーの葛藤にしても、すべてが街の者たちの前で繰り転げられ、街の人々に現前されている。孤立感に耐えられなくなったクーパーは、あろうことか街の人間の前で泣いてしまうのだ。
ヒーローとは、大衆と、孤独な存在との「ずれ」が生じさせるものだとするならば、街の人々がみなクーパーの孤独感を知っている「真昼の決闘」は、ヒーローの映画ではない。
「真昼の決闘」のゲーリー・クーパーはヒーローではないのである。
■ヒーローではないこと
重要なのは「真昼の決闘」のクーパーがヒーローではないことではない。その歴史観である。この作品における歴史観とは「我々が教えられてきた、或いは知っている歴史は、真実である」にほかならない。そこでは等質的で直線的であるところの楽観的な進歩史観が前提にされている。
そうした歴史観とは、「A」級映画的なものである。そこで歴史とはみんなに共通する歴史であり、みんなが学校で教わった歴史である。だからこそ、受ける時には大ヒットする。「A」級映画とは、その歴史観において民主主義的な映画なのだ。
商業的であると同時に創作であり、作品であるはずの映画製作が、「民主主義的」に作られるという現象は、その映画がほかならぬ「A」であることを意味している。
■「ラスト・シューティスト」(1976)
「ラスト・シューティスト」においては「目撃すること」が極めて示唆に富む形で撮られている。繰り返すがこの作品はジョン・ウェインの遺作であり、イーストウッドの師匠であるドン・シーゲルの撮った最後の西部劇である。
ここで最後の酒場の決闘を、ロン・ハワードがただ一人だけが目撃している。少年であるロン・ハワードにとって、有名なガンマンであるジョン・ウェインはヒーローである。彼は末期がんで行く末のない老いぼれのガンマンであるジョン・ウェインが決闘へと向う前、ウェインの愛馬を託されている。そんなハワードが酒場の決闘で目撃したのは「真実」であり、「うそ」ではない。するとこの「ラスト・シューティスト」という映画は「真昼の決闘」と同じように、目撃者が「真実」を語り継いでゆくという、「A」的映画ということになりそうである。だが「B」の代名詞であるドン・シーゲルはそうはしなかった。ここで目撃者としてのロン・ハワードは、事件を知ってあとから駆けつけてきた群衆の中をすり抜け、振り向きもせず、脇目も振らずにまっすぐに歩き続けて家へ帰ってしまうのである。彼は決して目撃した事実を誰にも語らない、彼の見た「真実」は一人で背負って行く、そういう強い意志を、この脇目も振らない一直線の運動は露呈させている。そうした歴史観を補強するように、この映画にはジョン・ウェインに反感を持つジャーナリストが存在し、彼はこの事件を、保安官がジョン・ウェインを退治した英雄話にして報じたいと保安官に持ちかけている。
ドン・シーゲルはジョン・フォードと同じように、歴史と「真実」とのあいだに敢えて「ずれ」を生じさせ、ヒーローを影として浮き立たせている。
この「ラスト・シューティスト」において、どうしてジョン・ウェインは、それほど悪い人間として描かれてもいない三人のガンマンを強引に酒場に呼び出し、無理矢理決闘をしたのだろうかと、以前私は不思議に思って見ていたのだが、結局のところそれは、彼らがみな、何かにつけてすぐピストルを振り回してはばんばん撃ってしまうような時代遅れの古い男たちであるからにほかならない。この映画の舞台は1901年。フロンティアは終わり、自動車が走り、街路には路面馬車が走っている。そんな新しい時代の中でジョン・ウェインは古い男たちを全員呼び出し、大掃除をしたのである。これはジョニー・トーの「エグザイル/絆」や石井輝男の「ならず者」とまったく同じ構造である。
映画は大きなたとえ話である。『時代遅れの古い男たちが、新しい者たちに時代を託し、みずからは総死することで時代の大掃除をして去って行く』。
我々がこれまで幾度と無く検討してきた西部劇の一つのパターンがこれである。
「ラスト・シューティスト」は、ジョン・ウェインというヒーローに対して映画的に自己言及をした極めて批評的な映画であるといえる。映画狂の映画監督である若き日のロン・ハワードが、映画の中で目を輝かせ「あなたに会えるなんて、、、」と呟いた「あなた」とは、決して「ジョン・ベネット・ブックス」なるガンマンではなく、ジョン・ウェインそのものである。「ジョン・ウェイン、あなたに会えるなんて、、」、、、あのロン・ハワードの目とは、そういう目なのだ。だからこそ彼は「チェンジリング」の脚本を書くような怪しい男なのであり、だからこそ「ラスト・シューティスト」の最期の決闘の酒場は「休憩時間」であり、だからこそ酒場のテーブルにはものの見事に椅子が逆にして乗せられおり、そうしたわけで映画は「B」として立つ。どうやら映画史とは、そういう循環(堂々巡り)らしいのである。
こうした作品の歴史観とは、表面的に我々が信じている歴史は真実の歴史ではなく、あるいは真実から少しズレている。その表面的な歴史の中に埋もれている影のヒーローたちを「掘り起こせ」の歴史観である。
●「拳銃王」(1950)
ヘンリー・キングの傑作●「拳銃王」においては、目撃者のいる場所で背後から撃たれたグレゴリー・ペックは、目撃者たちに向って「俺が最初に拳銃を抜いたことにしてくれ」と、歴史の修正を訴えている。そうすることで真実が隠され表の歴史ができあがる。
ここで私が指摘しているのは撮り方ではなく主題であって、すべての「B」と「A」とがこうした歴史観で決まるとまで断言するつもりもない。しかし大きく言えば、だいたいがそういうこととして慎ましやかに進行してゆくことになっているらしい。
■「天国と地獄」(1963)と「チェンジリング」(2008)
先日、黒澤明の「天国と地獄」と、イーストウッドの「チェンジリング」の同質性を説いているある批評を目にした。
確かに子供を間違えて誘拐した「天国と地獄」は「チェンジリング」と同じような物語ではあるものの、被害者の三船敏郎と佐田豊は、警察権力、マスコミ、そして世論という権力すべてを味方につけており、真実と社会の歴史観において「ずれ」を生じてはいない。対して「チェンジリング」のアンジェリーナ・ジョリーの味方は教会だけであり、その支援も永遠に続くわけではなく、最後アンジェリーナ・ジョリーは、たった一人で「掘り起こす」人生を続けることになる。社会の認識している歴史と当事者の認識している歴史とに「ずれ」が生じているのである。
「B」的な性向を持っている映画は、表と裏とをずらしたがる。対して「A」的な性向を持つ映画は「ずれ」を無視する傾向にある。
●「荒野の決闘」(1946)
ジョン・フォードにも「A」はある。
多くのファンが、ジョン・フォードの最高傑作であると判断を下す事で映画史を大きく歪めた「荒野の決闘」において、ビクター・マチュアの葛藤はすべて街の人々の目前で行われ、街の人々の多くは、マチュアやヘンリー・フォンダの事情を知っている。最後の決闘にも目撃者はいない。この映画には、表と裏の葛藤が不在である。少数の者のみが十字架のようにして背負ってゆくべき歴史というものがどこにも存在しない。「荒野の決闘」の主人公たちはヒーローではないのである。
主人公がヒーローでなくとも映画は「映画」となる。だが、仮にその映画が主として民主主義的精神に基づいて作られたとするならば、果たしてそのようなものが作品となり得るのだろうか。「荒野の決闘」は極めて民主主義的な「A」である。だからこそ大受けをした、という流れである。私はそう思う。
●「バファロー大隊」(1960)
決して悪くはないし嫌いでもなく、何度も見ているフォードの「バファロー大隊」が、仮にヒーローの映画足り得なかったとするならば、それは最後、判事が傍聴人を退場させなかったからである。それによって大衆が「真実」を知ってしまった。これはジョン・フォードのミスである。とは言わない。そもそもジョン・フォードとは、「A」的なものと「B」的なものとを巧みに織り交ぜ、あるいは織り交ぜたように見せかけながら、使い分けてきた監督だからである。
■「グラン・トリノ」
ウォルト・コワルスキーは、「ピストルを出すだろうと思わせて、ライターを出してギャング達をハメた男」である。ここで「真実」と歴史との齟齬を際立たせ、ウォルト・コワルスキーを影とさせヒーローにするためには、是非とも目撃者が必要である。そこでイーストウッドは、ギャングではない風貌であると一発で分かるような中年の夫婦ものたちをアパートのテラスに出させ、彼らが「目撃している」ことを強調している。そうした目撃者たちが出てき終わった時、ウォルト・コワルスキーは「ライターを出す」と大きな声で言い放つ。この目撃によって、多くの者たちによって語られる歴史は、「ピストルを出すだろうと思わせて、ライターを出してギャング達をハメた男」という真実から、「ライターを出そうとしたら間違って撃たれた男」へと映画的に変化する。ここで初めてヒーローが影となり、歴史の真実を知る者たちが、大衆ではなく一部の者たちへと一気に限定される。
ウォルト・コワルスキーは、ただの被害者として目撃されることによって「影のヒーロー」として消えて行った。このシーンおいて目撃者が存在したことは、まさに映画の心臓そのものなのである。その後、モン族の姉弟が現場へ駆けつけたとき、彼らを制止するアジア系の巡査が、「目撃者がいるらしい」と、我々に判るようにはっきりと声にして語ったのは、いかにここで目撃者の存在が映画的に重要かを指し示している。
■ずらすこと
大切なのは目撃者ではない。ずらすことである。歴史においてヒーローは、目撃者たちによって作られる。だがその歴史とは、進歩というものを前提として後から作られた均質的で単線的な教科書的な歴史観にほかならず、真のヒーローたちの歴史は影の中へと葬られてきた。それを人間の目のあやふやさとして描いたのが「リバティ・バランスを射った男」であるとするならば、写真の不確かさによって描いたのが「父親たちの星条旗」(2006)である。そのどちらにも目撃者が存在するにも拘らず、彼らによって目撃されたのは、真の歴史ではなかった。そこには「ずれ」が生じているのだ。
こうしてイーストウッド映画に密かに周辺的に形成されてゆく「ずれ」という現象が私を誘うのは、「ずれること」という羞恥心にも似た現象が「映画=B」と何かしらの関係が在るのではないか、に対する好奇心である。
●「ペイルライダー」(1985)の少女は、去って行くイーストウッドの背中に対して直接「カンバック!」などという甘ったるい言葉を叫ばなかった。
それどころか彼女は
「We all Love You。I Love You。Thank You。Good Bye!、、、」と別れを告げたあと、反対方向へと立ち去ってゆく。
その叫び声は、既に見えなくなったイーストウッドの背中へ向けて、やまびことなってこだましたのである。
真実を直接言わないこと。真実は直接言われた瞬間「真実」ではなくなってしまうから。これが「羞恥心」という名の、映画の「B」的資質の一部である。
■「フォード(Ford)の組立工」
「グラン・トリノ」の姉弟、「彼奴(きやつ)は顔役だ!」のプリシラ・レイン、「ラスト・シューティスト」のロン・ハワード、「ペイルライダー」の少女、「ウエスタン」のクラウディア・カルディナーレ、みな例外なく父親が不在の新参者である。古い者たちは、生き方を知らない彼らに流儀を教え、影となって立ち去ってゆく。
ガンベルトではなく、工具袋を腰に下げた少年が、ヒーローから託されたことといえば、「フォード」という名のアメリカを、組み立て直して行くことにほかならない。
映画研究塾2009.5.30